テクノロジーとデザインの力で、地方のビジネスを作る面白さ
「いつかは福岡に戻ると決めていた。夫婦の仕事、子どものこと、マイホームと、ライフプランを逆算していくと今がそのときだった」
香月さんは今年、大分に本社を置くイジゲングループ株式会社に入社。本格移住までの1年間はフルリモートをベースにお仕事をされています。
東京で築いてきたキャリアと、今後の居場所としてイジゲングループに意思決定された理由を伺いました。
教育のデジタライズに可能性を感じていた
――香月さんは大学院までを九州で過ごされ、新卒でベネッセコーポレーションに就職されています。就活のタイミングではどういったところを志望されていたのでしょうか。
大学と大学院とで、就職活動は2回しましたね。1回目の大学卒業時は特に強いこだわりや理由があったわけではないけれど、漠然と「東京に出ようかな」と思って探していました。ただ、就職氷河期の真っ只中で上手くいかず。そもそも自分が何をしたいのか、まだはっきりと定まっていない状態でもあったんです。
その後、大学院に進学しました。同期が次々に就職していく中で、ひと足先に社会人として働きに出る彼らと、大学院に進んだ自分の間で、力やスキル面において差をつけたくないという気持ちもあって。院での研究はもちろん、就職活動をどう戦うか、それに向けてどういったスキルを身につけるべきか、進路についても真剣に向き合いました。
――ベネッセコーポレーションへの入社は、どのような経緯だったのでしょうか。
大学院に進んで改めて「好きでやりたいのは開発業やプログラムなんだ」とこのときは思っていました。福岡に残りたいという気持ちもあり、9割は福岡のシステム開発の企業を受けていましたが、1社だけ、自分の研究の延長線上にあるものを受けてみたんです。それがベネッセコーポレーションでした。
大学院では、教育のデジタルコンテンツについての制作や実証実験をしていて。というのも、それまでの教育現場はずっと紙とペンが主流だったんです。これだけデバイスやネットワークが普及して、お隣の韓国ではデジタル化が進んでいるのに、どうして日本はずっと紙とペンなんだろう?学習にももっとテクノロジーの力を活かせるのに、と思っていました。
ちょうどその頃、ベネッセではタブレットの教材が出始めた頃だったので、これはやる価値があるぞ、と。
――入社後は、商品企画部門に配属されています。配属先も希望が叶えられたのでしょうか。
最初は高校の数学の教材編集を担当することになりました。元々僕はハッカソン形式のインターンとしてベネッセに関わっており、デジタルコンテンツについての企画開発ができる人材として採用されたんです。
実は、初めは「デジタル開発部じゃないのか……」と思ったりもしました。でもベネッセの場合、開発部はデジタルをどう活用するかといった企画ではなく、SIer出身のようにゴリゴリの要件を書く人たちばかりです。
一方、事業部と言われる商品企画では、デジタルや紙といった区切りもなく、Webコンテンツ、アプリコンテンツ、ゼミのコンテンツと、全てを幅広く担当できました。
――商品企画の4年間で、印象的な出来事はありますか。
4年目の最後、それこそ商品部を離れる直前のアプリ開発がとてもスリリングでしたね。途中からはサポートをつけてもらいましたが、当初は1人だけでコンテンツ制作にあたりました。
教科書出版社の出している問題集が200種類くらいあったのですが、それと自社コンテンツを全部紐づけていく。かつ、アプリのUIUX開発の取り組みや、数学担当のプロダクトオーナーとしてジャッジもしていく。かなりのハードワークでしたが、なんだかんだ楽しかった記憶があります。
――期日に追われながらゴールに向かって動くことが苦ではなく、むしろスリリングで楽しいと感じられるんですね。
期日に追われるのは基本的に嫌ですが(笑)。元々デジタルコンテンツの企画制作がしたくて入社したので、「アプリ開発」というちょうどやりたかったど真ん中の仕事が回ってきたからかもしれません。
コンテンツとプロダクト、両方の知見がなければできない仕事というのも大きかったですね。新卒から携わってきた、高校数学の編集者としてのスキルも活かせますから。元々やりたかったこととそれまでの経験がうまく融合されて、「これは自分じゃないとできない仕事かもしれない」と思いました。
プロダクトオーナー、開発サポートを経験後、一番やりたいことに気づいた
――アプリ開発に携わり充実感を得つつも、1年間の社内研修を受講されています。何が背中を押したのでしょうか。
プロダクトオーナーを経験した時に、もどかしさを感じたんです。やりたい仕様や企画案を持っていっても「テスト工数も含めると複雑で時間がかかる」と返されてしまう。しっかりした経験やスキルさえあれば、無駄にリッチなものじゃなく「今回解決したい課題とそれに対してのアプローチはこれ」と自分で最短距離を選んでいけるはずなんです。
たまたまそのタイミングで社内研修の公募が出ていたので、ちょうどいいと思って希望しました。
――研修を終えて、次はまさに開発の部署に移られたのでしょうか。
SI畑のような部署と、事業部とのちょうど中間の橋渡し役という立ち位置です。事業部が企画したものを開発面でサポートしていく部署でした。共通言語のない2つの部署間に組織を設けて、事業部の勝手が分かりつつ、開発側も分かる人材がそこにアサインされていました。
――最初の転職を考え始めたきっかけをお聞かせいただけますか。
自分の力を試したくなったことが一つめの理由です。商品企画と開発を経験した結果、プロダクトとサービスに向き合ってしっかりグロースさせて行きたい気持ちが強くなりました。開発サポートの業務は自分で創造していける範囲に限界があり、もどかしさを感じていました。一度学ぶために開発に片足を突っ込んだ形でしたが、やっぱりビジネスを作っていく側に戻りたいと思いました。初めの商品企画が一番楽しかったんだと。
発展途上のサービスで、チャレンジャーの立場としてチャレンジしたいと思い、いくつか転職エージェントに登録したんです。職務経歴書を書いてキャリアを棚卸することや、エージェントと話すという行為に価値を感じました。
スキルアップのためにも、再び居場所を変えようと思った
――最初に転職をされる時点では、「福岡へ移ろう」という思いはさほど強くなかったのでしょうか。
僕一人であればそのタイミングで福岡に行くのもありでしたね。けれど、ちょうどその頃結婚したんです。妻は東京出身で「第一子までは東京がいい」と言っていました。
そういう経緯で、高尾さんには東京と福岡両方に拠点がありつつも、まずは東京で働くことのできる企業のご紹介をお願いしていました。
――その後、香月さんは自主応募の結果、KDDIに入社されます。決め手はどのような点でしたか。
まず、教育ドメインであったことが大きな理由です。転職活動中、実はプロダクトマネージャーとして受け入れてくれるところを探していました。でも経験が浅いので、結局はドメインの所を強みとして持たないと、転職市場ではなかなか勝てないなと。「教育」で考えていくことにしました。
募集ポジションの説明にも惹かれたんです。教育事業を新規で立ち上げるにあたって、開発ディレクションができる人。さらに言われたことをただやるだけでなく、ビジネスサイドに食い込んで一緒に駆動させていく人。本来自分のやりたい商品企画側に寄っていくことが実現できそうだと考えました。
――KDDIでは、リベラルアーツプログラムの開発責任者を担当されました。お仕事を通じて、やりがいや成長の実感などはありましたか。
チームマネジメントを経験させてもらえたのが、とても貴重な経験になりました。新たにスクラムチームを立ち上げたり、UXデザイナーのポジションを新設して協働して、「価値の最大化」に向けて開発のプロやデータサイエンティストとも密にコミュニケーションを取ったり。チームメンバーのwillやモチベーションの在り処を探りながら一緒に仕事を進めていくのは楽しかったです。デジタルマーケの部分もちょっとかじらせてもらったりして、「開発ディレクター」の割には領海侵犯しまくりでした(笑)。
――そんなやりがいのある中で、2回目の転職を考えられたのはなぜですか。
僕は面接で「ユーザーとプロダクトにこだわり抜きたい。そういう環境を求めている」と話していました。
実際は開発部隊で決められることは少なくて。ビジネスサイドに確認を取って、開発サイドで全てステップを立てて進めていくのですが、承認が済んだものであっても、工程が進んでから変更を求められることもあります。ビジネスサイドとのコミュニケーションを丁寧にとる必要がありました。ビジネスサイドが大事にしていることと、自分の考え方のズレがどんどん無視できなくなってきました。
仕事内容や組織などの外部環境を自分一人で変えることは難しいです。今後のスキルアップを考え、「いっそ居場所を変えよう」と再び考えました。
地方都市には、原石のままの会社がまだ数多く眠っている
――二度目の転職を考え始められたときにも、YOUTURN高尾に相談くださっていますね。
妻の仕事を考慮し、翌年の3月に福岡に戻ること自体は決めていました。移住までの間はフルリモートで働ける所を探していたんですが、面接にいくつか落ちて行き詰まってしまって。壁打ちしてほしいという思いで高尾さんにご連絡をしたんです。
色々と話して棚卸しをしていく内に「次はきっとベンチャーがいいですよ。ユーザーにこだわっている人たちがたくさんいます」と提案をいただいて。フィットしそうな企業と繋いでもらった中に、イジゲングループがありました。
最初に高尾さんからイジゲングループの話を聞いた時、既に自分の中でアンテナが立ったのを覚えています。ミッションやアプローチがすごく面白い会社だし、自分のやりたいことにとても近いと思いながら面談に進んでいました。
――顧客に近いところでクライアントワークに携わりたいという思いがあったのでしょうか。
それでいくと、初めはクライアントワークという選択肢はなかったんです。依頼時の要件を満たして納品したらそれで終わり、という尺度では動きたくなくて。アクセルをふかし、しっかりと自身で事業を育てていきたいと考えていました。
――香月さんの感じたイジゲングループの魅力を教えていただけますか。
ハンズオンでどっぷりとプロジェクトを進めていけるところです。地方都市には、原石のままの会社がまだ数多く眠っているのだと思います。自分たちだけではこれから事業をどう伸ばしていったらいいか分からないという会社もありますし、斜陽産業と呼ばれる業界にはこのままだと衰退を余儀なくされるような会社もあります。
イジゲングループは、企業の新規事業や経営課題に対して、さまざまな手段でワンストップの伴走支援をおこなう会社です。納品したら終わりという関係性ではなく「どうやったらいいか分からず困っている」という人達と、一緒に作っていく。この姿勢が非常に魅力的でしたね。
東京にある100人規模の会社と、地方での100人規模の会社って、その地域における重みが違うと思うんです。
――規模が同じであったとしても、地域におけるインパクトやプレゼンスが違うということですね。
地域の雇用を生んで生活を支えている、その地域の経済を回しているという意味で、なくてはならないものだと思っています。そういったことを踏まえると、地方でビジネスを作っていくことの役割やインパクトの大きさが実感できます。まだ手つかずで盛り上がってない領域も掛け合わせると、面白さを強く感じますね。
――実際に入社されてみて、ギャップを感じるような場面はありますか。
前職では感じたことのない熱量があります。伴走させて頂いているクライアントの方々は、ご自身の企業や業界・地域に課題感をお持ちです。「なんとかせんといかん」と本気で考え、我々のところに相談に来てくださる。そういった熱量の高い方々と一緒にお仕事ができるのは面白いですね。想像以上、期待以上だった部分です。
求職者のニーズを、YOUTURNの面談で掘り起こしてもらった
――YOUTURNを利用された感想をお聞かせください。
節目節目で高尾さんの分析力と包容力に心の面から助けてもらったので、本当に感謝しています。
求人票と職務経歴書だけでは分からないニーズ、真に期待するものを、面談の中でも深く掘り起こしてもらいました。きっと同様のことを企業側に対してもされているんだろうなと。だからこそマッチするアンテナが高い。「この企業さんは香月さんにフィットすると思いますよ」と紹介してもらった時に、ビビッとくるものがあるんですよ。
大手のような「データベースを弾いてマッチングして、とりあえず沢山受けてください」という感じのエージェントでは、こういう出会いはまずありません。YOUTURNは質が違うと感じました。
――福岡に移住する時期をご夫婦で決められたのは、お子さんの年齢も関係しているのでしょうか。
子供は今一歳なのですが、いくつになるまでというのは特になかったです。ただ、妻の仕事の事情から、年度の途中で移住することができませんでした。
第二子も欲しいとなった時のことや、家を建てる場合のローン年数なども逆算して色々組み立てていくと、このタイミングしかないねと。それが来年の3月でした。住まいは実家の近辺にしようと考えています。子供がまだ小さいので、何かあったらすぐに駆けつけてもらえる距離だと安心だというのもありますね。
――福岡移住について、奥様の反応はいかがでしたか。
出会った当初からずっと「一生東京にはいないよ」と言ってはいたんです。子供も生まれて「そろそろ福岡に帰りたい」と切り出した時は、「思ったよりだいぶ早いね」という反応でしたね。
でも今は妻もすごく前向きです。糸島に遊びに行くんだとか、美味しいものを沢山食べるんだとか、家はこの工務店で建てるんだとか。福岡での生活を楽しみにしてくれています。
<執筆後記>
地方でビジネスを作ることの意味、地域に与える影響の重さを実感し、イジゲングループが手掛ける事業に強く惹かれ入社を決断した香月さん。「いつか福岡に帰る」というタイミングが今まさに訪れ、今後の仕事にも生活にも希望溢れる様子がうかがえました。
YOUTURNでは、皆さん一人ひとりの個性や価値観と向き合った転職相談をおこなっています。九州・福岡への移住転職をお考えなら、ぜひ一度お問い合わせください。