
"For Japan"を胸に。地方には日本の歴史と世界をつなぐ力がある
福岡県柳川市。歴史ある城下町の観光振興を担う「柳川観光協会」で、熱量をもって地域プロジェクトを推進している氏家さん。
埼玉で育ち、東京や大阪など都市圏でキャリアを重ねてきた彼は、2024年家族とともに福岡へ移住。地元の未来に関わる仕事へと大きく舵を切りました。
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コンサルを辞退した就職活動。原点は学生時代に

──まず大学卒業後の就職活動について教えてください。
私は埼玉出身で、国立大学の理系学部に所属していました。当時はSEやIT系のコンサルタントという軸で企業を探していて、あるコンサル会社から内定をいただいたんです。
その企業との面接時に社員と役員から「人に尊敬されたいなら、年収が大事だ」と強く言われていて。
当時は「世の中そんなものかな」と思っていましたが、その後とある求人サイトで見つけた会社に入社することに。
その会社がMTG株式会社でした。美容ブランド「ReFa」やヘルスケア機器「SIXPAD」などを販売している会社です。
美容業界には全く興味なかったんですが、説明会で登場した役員が"メイド・イン・ジャパンを世界へ"と夢を語っていて。その熱に心を動かされたんです。
──20代前半から違和感に流されず、自分の感覚に従って決断できたというのはすごいです。
高校の応援団の経験が大きいかもしれません。埼玉で100年続く男子高でしたが、応援団に入ってから価値観がガラッと変わって。
めちゃくちゃ厳しい世界だったんですけど、やり切ったときの感動が本当に大きくて。大学では体育会のテニス部に入りました。
部活的なノリの中で仲間とわちゃわちゃしながらも、しっかりチャレンジできる環境が好きだったんです。
社会に出てからも"お金のため"というより、"一緒に頑張れる仲間がいる"環境を自然と選んでいたんだと思います。
順調に成果を上げるも湧いてくる葛藤。「本当にこれでいいのか?」

──MTG社では5年働かれています。どのようなお仕事だったのでしょうか?
家電を中心とした小売店向けの営業。大規模イベントで全社表彰をいただくこともありましたが、2~3年経つと"売上を上げることだけが自分の価値なのか?"という疑問が湧いてきました。
と言うのも、郊外にある店舗では月に1本売れるか売れないかという世界。取り組んだことが本当に成果につながっているのかわかりにくい状況もありました。
一方で会社の評価は"どれだけ売ったか"。売場づくりや勉強会など現場でやれることはやったのですが、数字に出にくい部分ばかりで...もどかしさを感じていったんです。
3年目には最年少で福岡のチームリーダーに抜擢され、翌年は大阪へ。組織の中で順調にステップアップしたように見えますが、実際の現場は葛藤の連続でした。
──入社後から大活躍しているように伺えますが、どのような葛藤があったのでしょうか。
当時の主力商品は美容ローラー〈ReFa〉。新型が次々出るものの、売り上げは伸び悩み、在庫だけが膨らむ。
量販店からは「返品させて」「値下げさせて」の声が上がりますが、ブランド方針は価格改定NG・返品NG。現場と本部の板挟みでした。
「自分はこの仕事を通じて社会に貢献できているのか?」そう問い続ける日々。
担当役員に相談し、所属する本部で社員アンケートを実施してボトムアップで意見を出しましたが、大きな組織だったので自分の考える方向に会社を変えていくのは難しかったですね。
そこで転職を決意し、クラウドカメラサービスを展開するセーフィー株式会社に入社しました。
セーフィでデータ×現場に挑みつつ「自分で旗を立てる」覚悟

──当時セーフィはどんな会社に見えていましたか?
すでに100名規模になっていて「大人ベンチャー企業」という印象でした。
事業としても、当時は世の中がAIの時代に突入する時期で、防犯カメラの映像データを持っている強みは大きいと思いましたね。
日本は製造業やサービス業など、現場に強みがある。現場をデータ化する仕組みは日本だからこそやる意味があると考えていました。
──どのようなお仕事をされていたのでしょうか?
SaaSのプロダクト営業で、中小規模の企業向けからスタートし、エンタープライズ企業にステップアップしていきました。
ただ、防犯カメラを売りたくて入ったわけではなく、データ活用という付加価値をつけて販売したかった。
そこでセールスをやりながら兼務で事業開発部門へアサインしてもらって新規事業の企画立案をしていました。
充実していましたが、企画していた新規事業が防犯カメラ×データという文脈から外れていき、会社としてはスピンアウト(親会社との資本関係が解消)する方向に。
私も創業メンバーとして参画することにしました。
──YOUTURNに会員登録いただいたのが2020年。2社目に在籍している時から福岡への移住は考えていたのですね。
そうですね。妻と結婚生活をスタートしたのが福岡で(妻は1社目の先輩後輩という関係で出会った長崎出身の方です)、大阪、東京と転勤する中で「やっぱり福岡いいよね」と。
あとはコロナ禍という要素も大きかったですね。当時すでに子供がいたので、「子育て環境は海や自然が近い福岡がいいよね」という話をしていました。
妻の実家が長崎なので、彼女の両親に孫を見せる機会も増やせると思って。
──スピンアウトした会社ではどのような状況だったのですか?
創業メンバーとして参画した理由には、明確な目的がありました。とにかく事業として"0→1"を経験したかった。
企画を形にして、売上が立つ状態にすることを目指していました。しかし、事業を進めていくにつれて、自分が推進する意義を考えることが増えてきました。
どんな事業でも良いわけじゃない。事業立ち上げは失敗の連続です。だからこそ「何のためにこの仕事をするのか?」が重要。
少人数で会社を立ち上げた中でそんな根本的な部分に悶々としている時点で、「自分で起業するしかないのかな」という考えになっていきました。
事業の意義を考え抜いた結果、”For Japan”という言葉が心に落ちてきたんです。1社目も2社目も「日本」がキーワードになっていたのは、単純に歴史が好きだったから。
歴史と現代をエンゲージメントできるような仕事がしたいと改めて考えるようになりました。
コロナ禍が明けて、出社回帰。家族で本格的な移住検討へ

──移住を本格的に検討した背景を教えてください。
コロナ禍がひと段落したタイミングで妻が出社しなければならない話が出てきて、「このままだと子育ての両立が難しい」という中で「じゃあもう福岡に移住して転職しようか」という流れになりました。
その後、妻が経理を担当していた子会社から業務委託の打診を受けてリモートワークが可能になったんです。
一方で私は、福岡に移住することは決まっているものの、今の会社で遠隔環境できちんと成果を出せるのか葛藤がありました。
──スタートアップで大切な熱量やモメンタムを起こすにはオフラインでの会話が不可欠と言うことですね。
創業メンバーとして他のメンバーに対して途中で抜けて申し訳ない気持ちがあったので、代表に相談して将来のビジョンを本音で話しました。
「福岡に行くことは決めていて、でも1人で起業できる確信はない。だから福岡の地場企業や歴史に関係ある会社に一時的に転職して、そこで見つけた課題で起業したい」と。
まさに"出会い頭のマッチング"。全てのタイミングが重なったU・Iターン転職

──このタイミングで、もう一度YOUTURNへご相談いただきました。
はい、関東に持ち家がありましたので、売却期間を兼ねて自分の悩みを相談しながら、キャリアの選択肢について一度テーブルに並べたいという気持ちがありました。
そこでもう一度YOUTURNの高尾さんと面談することにしたんです。
福岡移住が現実的になって、これまでの不満や葛藤を聞いてもらった中で、やはり自分の人生を振り返ると"For Japan"でありたいという思いが出てきました。
昔から父親の影響で歴史小説などに触れる機会が多く、大河ドラマも大好きでした。歴史の面白さって"主語の大きさ"だと思います。
1人称ではなく、家族や大切な人、故郷や日本国のためという大義が魅力的なんですよね。
──ちょうど柳川市観光協会のDMOプロジェクトを推進する方を募集したいと相談がありました。
高尾さんと話す中で、江戸時代の武家屋敷を今も宿泊施設として運営している「柳川藩主立花邸 御花」の存在を聞き、さらに立花家の末裔が代表をしていると知って。
「これはきた!」と興奮しました。そんな中で、御花がある柳川市でDMOの案件を聞いて、プロジェクトマネジメント職としてなら貢献できるかもと思いました。
実は以前から副業的に自社ブランドを立ち上げて、ブックライト(読書時に手元を照らす照明)を販売していたんです。
でも本当の意味で"For Japan"でやるためには、資金も足りず、何よりも時間もかかってしまう。
柳川で仕事ができれば、個人で小さくビジネスをするよりも圧倒的なスピード感で、やりたいことを体現できると思いました。
──DMOプロジェクトは予算も期日も決まっている中で成果を出さないといけない。内定が出た時の感想を教えてください。
「やれねば!」という覚悟を持ちながらも、現実的には条件面で家族と話し合いが必要だなと思いました。
DMOは補助金中心に予算が組まれていることもあって、給与の交渉も難しいだろうと考えていました。
そして、実は福岡市内ですでに物件は決めていたんです。そんな中で柳川で働くというのは家族にとって「え、柳川!?」という話でした。
最終的には応援してもらえて、平日は柳川で週末は福岡市内に帰る生活を許してくれた妻には感謝しかありません。
人生かけた大勝負。脇目も振らず、一心不乱に3年やり切る覚悟

──転職されてから半年経過しました。本格的に仕事を始められてどのような感想をお持ちですか?
最高に充実しています。課題は山ほどあるし、自治体や地域と連携しながら進める仕事の難しさはありますが、本当に来てよかった。
今までのキャリアで感じたことがないくらいこの事業に没頭しています。
これまでも目の前の仕事に集中していましたが、どこかで「このままじゃマズい」「何か新しいことを学ばないと」という気持ちがありました。
でもここでは人生や事業の良し悪しで自分の給与もかかってきますから、毎日が全力投球です。
──地域全体で事業をするという意味で、ステークホルダーが多そうです。
はい、決裁を通すのに苦労しますね。あと、飲み会がめちゃくちゃ多いです(笑)。楽しいし勉強になるから全然苦じゃないんですけどね。
これまでの常識で言えば、株式会社であればいかに利益を出すかが重要です。でもここは違います。
日々の仕事の中で「すぐに利益にならない」そんな仕事が8割くらいあるんです。
早く事業を立ち上げて結果を出したい気持ちはあるけど、それを実現するまでに片付けないといけない課題もたくさんある。
そこが半官半民ならではの難しさであり、面白さでもあります。
──DMO事業として補助金のリミットが3年、緊張感がありますね。
ある意味、3年続くかどうかも保証されていません。時間軸が想定より長くなることも多いです。
前工程を整えないといけないことが予想以上にあります。でもこの仕事は絶対に意義のあることだと信じていますし、日々仲間が増えている感覚もあります。
スタートアップで起業するってこんな感じなのかもしれませんね。
結局福岡に行ってみないとわからない。地方の歴史が世界をつなぐ

──このブログを読んでいる方々は、今まさに福岡移住を検討しています。メッセージをいただければと思います。
まずキャリアにおいて、今は様々な選択肢があります。自分だけで考えずに、外部のプロフェッショナルに話を聞いてみる、あるいは聞いてもらうことは重要だと思います。
自分の想いを開示していくことが大切です。周りの方々は思っている以上に応援してくれる。それを実感できるだけで気分は変わってくるはず。
YOUTURNは移住も含めたキャリアプランを一緒に考えてくれるパートナーです。悩みや不安、葛藤などを言語化することを手伝ってくれる友達のような感覚です。
私は今後地方が本当の意味で活力を取り戻すと思っているから、福岡に移住しているんです。
地方には日本の歴史資産がたくさんあって、そこを目掛けて外国人が押し寄せてくるわけですから、世界と近いのは東京ではなく地方です。
──その通りだと思います。私たちYOUTURNも全く同じ気持ちで移住転職の支援を行ってきました。
日本の歴史を変えてきたのは常に地方の力です。武家政権の誕生も明治維新も、変革は地方から始まりました。
今もなお、光が当たっていない歴史資産が地方には眠っています。
これらを掘り起こし、現代の価値へと磨き上げることこそが、日本の新たな可能性を切り拓く鍵になると思っているんです。世の中が動いてからでは遅い。
みんなが動く前に、早めにこっちに来てコミットしてみませんか?という気持ちですね。
──最後に、歴史ある柳川という土地で生活する中で感じたことを教えてください。
言葉で聞く地方の可能性と、実際に住んで体験するリアリティには大きな隔たりがあります。
柳川では、よそ者の私を温かく迎え入れてくれる風土があり、自分ではなく地域を主語に語る情熱的な人々ばかり。
やる気のある若い世代とのつながりも自然と広がっていく—そんな柳川に恩返しをしたい。今の小さな一歩が、やがて大きな変化の波になると信じて、挑戦を続けていきます。
編集後記
氏家さんのインタビューを通して感じたのは、キャリアにおける「自分軸」の大切さです。
コンサルの内定を辞退し、自分の心が動いた企業を選ぶ。セールスで成功しながらも「社会的意義」を問い続ける。
そして「For Japan」という自分の価値観に忠実に、家族と共に福岡へ移住する決断をする――。
都市部から地方へのキャリアチェンジは、単なる「働き方改革」や「ワークライフバランスの向上」だけではなく、「自分は何のために働くのか」という本質的な問いに向き合う機会なのかもしれません。
特に印象的だったのは「世界と近いのは東京ではなく地方だ」という言葉。
歴史や文化という日本固有の資産を活かした地方創生は、これからの時代における大きな可能性を秘めています。
氏家さんの柳川での挑戦は始まったばかり。地域に根ざしながらも、世界を見据えたチャレンジの行方に、これからも注目していきたいと思います。